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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
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人の痕跡

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名護市許田のウガン崎に、自分たちで建てた家に住む夫妻がかつて居住していたことは、以前にも書きました。
当時の新聞や雑誌に掲載された記事を読むと、軍属だった米国人の夫と大阪出身の奥さんが、街の暮らしを捨て、自給自足の暮らしを目指して美しい海辺に移住したとありますが、その後を報じる記事は見当たりません。
二人がこの地を離れたのは、海洋博覧会開催(1975年)に合わせた高速道路の建設が、すぐ近くで始まったためだと思われます。
最近まで家の跡が残っていた、と言う友人たちもいたので(彼らの「最近」は30年ぐらいの振れ幅がありますが)、何か発見できるかもしれないと再び足を運んだのですが、背丈以上に生い茂る樹木に阻まれ、今回もそれらしい痕跡は見当たりませんでした。


写真の場所が唯一ともいえる平地。おそらくこのあたりに住居があったものと思うのですが、雑木が生い茂り、奥に進むことは無理でした。


その後、移動した源河ウェーキの屋敷跡。
高台に建つこの場所からは、南北の丘陵にはさまれた土地や海にそそぐ清流、川沿いの集落など、典型的なやんばるの農村風景が一望できます。
そして、源河の村を納め、隆盛を誇った家がこの場所にあったのですが、家屋が取り壊された今は石積みしか残されていません。

この日たまたま訪れた許田と源河の跡地は、どちらも今は時間のなかに埋没しつつあります。
許田に住みつき、自然と共存する暮らしを試みた夫婦、先祖伝来の土地を耕しムラを守ってきた一族と、人と土地との関係は異なりますが、やがてはその痕跡も土に還っていくのでしょう。
土地や家に縛られ、生きるのに必死だった私たちの先祖からすれば、人の一生はそんなものとの諦念や死生観が一般的だったのかもしれません。が、住居の痕跡さえ消えかかった跡地に立つと、寂寥感というか無常観のようなものが忍び寄るのも事実。
ピラミッドや銅像を建て、後世に残したい分けではない(そりゃそうだ)ですが、何も残らないというのも何だかなあとグズグズ考えたのでした。
(三嶋)

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名護のセミナーに参加しました

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名護市の中央図書館で開かれた、地域誌・字誌作りに取り組んでいる人たちの報告会。
沖縄は市町村をはじめとして、あちこちで多くの地域史が作られています。セミナーでは、実際に関わってきた人たちの苦労話や問題提起などもあって、いい刺激を受けました。

そして、行政やアカデミックな視点ではなく、日常の延長で地域を記録・蓄積することの重要性と、その方法論の検討が必要ではないかと感じました。
というのは、既存の市町村誌や字誌が、みんな同じような形態で作られていることに、ボクは以前から不満を抱いていたからです。
布張りのハードカバーに金箔の背文字、ケースに入った分厚く重い書籍といった従前のスタイルは、いかにも扱い辛いですし、一般の読者・住民に優しくありません。記念品として本棚にしまっておくとか、研究者などの利用を想定しているのなら別ですが、もう少し手に取りやすい形態やスタイルがあってもいいと思うのです。
このことは、「沖縄ある記」にも関わる課題であって、アウトプットだけを切り離して論じるのではなく、情報のインプットや加工、アーカイブなどについても同時に考える、包括的な取り組みが不可欠でしょう。
さまざまなメディアが発達した今日、コスト・パフォーマンスを最大化する手法と、そのための方向づけが立ち上げ時から求められるべきです。


写真は2014年3月に発行された、『新大宜味村史・ビジュアル版 わーけーシマの宝物』。
大宜味村内にある17の集落を、A4判・100ページほどの紙面でコンパクトに紹介しています。写真や地図などの情報が豊富で、ゆかりの人物やエピソードなども読みごたえ十分。
村史発刊は、民俗とか自然、沖縄戦、移民などのテーマごとに、それぞれ数年がかりで発刊されることが多いようですが、各巻は詳細すぎるがゆえに時間と経費がかかり、難しい内容は住民にも十分理解されていないように見えます。
この大宜味村のビジュアル版はその欠点を補い、今後の出版事業に対する住民の理解を得る効果もあるのではないでしょうか。
地域が急速に変容する今日、住民が地域を知るための出版が、まずは求められているように感じます。
(三嶋)

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川は流れる

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那覇市内を流れるガーブ川沿いを歩くと、かつて仲宗根美樹(分かるかな?)が歌ってヒットした、「川は流れる」のイメージが浮かんできます。
「わくらばを/今日も浮かべて/街の谷/川は流れる〜」という歌で(知らないか?)、「わくらば」って何?と思ったものですが、ハスキーな声で物憂げに歌われる川のイメージは、暗い心情を映すメタファーとして子供心に残りました。


そして、そのイメージにピッタリなのが、沖映通りの地下を流れ、ジュンク堂のビルの前で地表に顔を出すガーブ川。
しかし、このところ周辺ではいろいろな工事が進んでいる様子。この風景も近いうちに変わるのではないでしょうか。
汚い川がイイという分けではありませんが、何でもかんでもキレイでオシャレな空間になると、息苦しくなるのも事実なんです。
生来の卑しさや貧しさに天の邪鬼も味方して、小奇麗なものを見ると「ケッ!」とか毒づきたくなるんですわ。


新しいビルが建設されるそばの岩陰で、放置されたようにみえる墓がありました。
墓標には「故陸軍輜重兵上等兵呉屋喜次郎之墓」と刻まれています(「輜重兵」はWikipediaによると「しちょうへい」と読み、兵站業務を専門とする兵士とのこと)。
ガーブ川と沖映通りの間にある間隙に、ポッカリと空いたこの異空間は、近いうちに取り壊されるのでしょう(たぶんだけど)。
「生者は死者に患わされることなかれ」とも言いますが、70年前に戦死したこの方のことは誰かが覚えているのでしょうか。遺族も途絶えた墓が、彼の存在を証明する唯一のモノだとすれば、その喪失は、国のために戦死した魂が、「公」によって再度殺されることを意味しているようで、暗い気持ちになりました。


ガーブ川の側にあった、今では珍しい、子どもがたむろする商店。
コンビニに取って代わられて随分たちますが、地域交流の拠点だったマチヤグヮーは、地域のセーフティーネットとして大きな役割を担っていたと今にして思います。
わたしたちは、どこで間違えてしまったんでしょうね。
(三嶋)

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泡瀬干潟の今

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泡瀬まで出かけたので、その帰り、海岸に車を止めてパチリ。


辺野古がクローズアップされるなか、泡瀬干潟の問題が少しかすんでいる感じですね。


だそうです。
どんよりとした夕方の天気と、大潮のせいか海が遠い干潟の光景に、いっそう気分が滅入りました。
(三嶋)

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名護の二宮金次郎

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敬愛する名護の又吉康仁先生を久しぶりに訪ねました。
自宅横の畑には、ホーレンソウやネギ、シマナー(島菜)が、青々と葉っぱを広げ、畑の奥にある土手ではサクラの花が咲き誇っていました。
まさに少量多品種の「やんばる型農業」の実践場。
先生はいつも元気で落ち込むことがないようですが、「小学生の時から二宮金次郎だったさあ」と言うように、家の手伝いをこなしつつ、勉強もスポーツも力いっぱいやってきた経験と自信が生きているからでしょう。
農業にはまったく素人のボクが先生のお宅に通うのも、先生の前向きな姿勢に学ぶ点が多いからに他なりません。


コージン先生とも話すのですが、現在の農業の行き詰まり状況は、農や食の問題を経済だけで語りすぎてきた帰結なのではないでしょうか。
近年かまびすしいTPPや農協問題の根底には、この国のずさんな農業政策が積み残してきたツケがあり、それが一気に表面化してきた結果のように思われます。その結果、零細な生産者がいつも振り回される、という事態を招いているのではないでしょうか。
「儲かる」農業を当たり前とし、コメや野菜を都合のいい商品とするために、合理化や機械化を進め、農薬をまき散らしてきたのが戦後の農業ではなかったのか。そして「豊かさ」を追求してきた結果、農業の崩壊を招来してしまいかねない所まで追い込まれてしまったのではないか、そんな疑問が頭をもたげるのです。
貧乏でいいと言うのではありませんが、もっと別の道があるのではないか。
そんなときに、コージン先生が語る「生き延びる農業」に出会い、目が奪われたのです。
理論と実践をくり返し、一人でコツコツと畑を耕す姿は、まさに現在の二宮金次郎ですし、理数系の頭と同時に琉歌や詩を諳んじるロマンチストは、宮沢賢治のようにも映ります。
われわれが先生に学ぶべき点はまだまだ、多いように思います。
少しほめ過ぎでしょうか、先生。
(三嶋)

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