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琉米文化会館の足跡

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以前から、おつき合いをさせてもらっている大嶺昇さんと、琉米文化会館でかつて一緒だったという、比嘉義次さんのお宅を訪ねました。
比嘉さんは、大嶺さんと同時期、名護琉米文化会館で働いていた方で、旧屋部村の出身。同じ年齢だったこともあって、ウマが合ったようです。


写真は、久しぶりの再会を喜ぶ大嶺さん(右)と、比嘉さん(左)。
二人とも記憶がハッキリしていて、いろいろな話に花が咲きました。当時を知る方が少なくなるなか、お二人の証言は貴重です。これからも、継続的に聞き取りを続けたいと考えた次第です。


複写させてもらった比嘉さん所有の写真。1951(昭和26)年の撮影と思われます。
大嶺さんの記憶では、名護琉米文化会館の東隣にあった横内さん(前列右から3人目)の家で、クリスマス・パーティーをした際の写真のようです。
前列右端が大嶺さん、後列左から4人目が比嘉さんで、ともに当時20歳。
ネクタイ姿でウイスキーを飲みながら、鍋を囲む姿は不思議な取り合わせのような気もしますが、敗戦からわずかに6年しかたっていない時期、特別な日のご馳走だったようです。

1951(昭和26)年から翌年にかけ、名護・石川・那覇・宮古(平良市)・八重山(石垣市)に設置された琉米文化会館は、戦後沖縄の社会に大きな影響を与えたといえます。
先進的なアメリカのシステムで展開された図書館活動や社会教育活動は、地域に開かれた施設として住民サービスに努めました。それは焦土となった地の文化復興を支えた砦であり、巡回映画や巡回図書などの実践を通してへき地・離島などにも光を当てる、灯台のような存在だったように思われます。
しかし、本土復帰を前にした流れのなかで、琉米文化会館は米軍の宣伝機関だったと決めつけられ、それまで地域に果たしてきた貢献は省みられませんでした。また、蓄積したノウハウや情報、資料なども継承されることがなかったというのが実態でしょう。
米軍上層部に思惑がいろいろあったことは推察できますが、少なくとも、ボクがこれまで聞き取りをした大嶺さんや比嘉さん、宮古の砂川さんたち、当時の琉米文化会館に務めた若者たちは、上司からいわゆる宣撫工作などの指示を受けたことはなく、情熱と使命感を持って職務に当たっていたと証言しています。
彼らが教えられた米国式の考えは、住民が知的欲求を満たせるような環境を整えることであり、地域の力をコーディネイトして向上させることが仕事だということになるでしょう。
でも、よく考えると、これって、今あちこちで言われていることと、同じではないでしょうか?
60年以上前の、何もない貧しい時期に実践されていたことが、本土復帰を境に停止し、今も実現されない事実を、われわれはもう少し考えてみてもいいように思うんですよね。
(三嶋)

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