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安里公民館の勉強会

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県知事を激励し辺野古新基地建設に反対する、「安里・大道・松川の島ぐるみの会」による勉強会が、安里公民館で開かれるというので出かけました。
年輩方が大勢詰めかけ、辺野古や現在の政治状況を憂える切迫感に満ちていました。
社会が大きな曲がり角に来ている今、何をどうしていいか判断に逡巡してしまいがちですが、そんな時には先達の肉声を通して、歴史を俯瞰してみることも有効だと感じます。
DSCF0152
遺骨収集活動を続ける「ガマフヤー」の具志堅隆松さん。
DSCF0140
モノレールおもろまち駅の東にのびる高台あたりが、米陸軍がハーフムーン・ヒルとよんだ丘。
新しい道路(那覇中環状線)の建設で丘は削られ、写真のような風景が現在は眼下に広がっています。
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上の写真と次の写真は、2008年6月22日、ハーフムーン・ヒルで行われた遺骨収集作業の様子。
具志堅さんの呼びかけで、大勢のボランティアが参加して行われた結果、日本兵の遺骨のほか手榴弾や銃弾、遺品なども発見されました。
IMGP4653
すぐ近くに位置するシュガーローフ・ヒルでは、貯水タンク建設や道路工事が急ピッチで進められた結果、収集できない遺骨がまだコンクリートの下には埋っていると具志堅さんは悔やみます。
が、遺骨収集の思いは世代を越えて引き継がれ、コンクリートの下に眠る遺骨も、いつかは陽の光を浴びる時が来るでしょう、と意外なほど明るく話されます。
そう、何かを成す人は、自らの大変さは語らず、明るい未来を語るんですね。
<三嶋>

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ヤンバルの「山野草観察&試食会」

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名護博物館友の会主催の「山野草観察&試食会」に参加し、春の新鮮な緑を、目と胃袋で味わってきました。
県営中城公園学芸員の比嘉正一さんと、名護博物館友の会理事で栄養士の、宮城都志子さんという専門家お二人も一緒なので、心強いこと。
この際なのでイロイロ聞こうと思ったのですが、何を訪ねていいのか分からないことに気づき、これほどまでに自然との距離が遠のいているのかとアキレた次第。

草花の名前や役立ち情報をそのあと教えてもらって大変面白かったのですが、草木の名前などをすぐ忘れてしまい、情けないことこの上なし。記憶力の衰えもさることながら、薄っぺらな知識はやはり身に付かないということでしょうか。

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教えられるまま、手近な草を食べたりしながら、源河川周辺を楽しく歩きました。

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面白い話を山ほどお持ちの比嘉正一さん(県営中城公園学芸員)。

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摘んできた草や葉を使い、旧源河小学校の教室で調理。

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真ん中のパスタはホウビカンジュとクワの葉入り。右下はシャケとツルナの混ぜご飯。
左手前はタラの葉とクワの葉の天ぷら。奥に見える緑はオオタニワタリの味噌炒め。
その他ツワブキのフキ味噌もあって、野草パーティーは盛り上りました。
<三嶋>

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ジャーガル(謝苅)の写真を発見

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琉米歴史研究会にある写真のなかで、昭和30年代の謝苅を写したものを見つけたため、現地で確認してきました。
今も建物が残るナポリ座(昭和28年ごろ開館)が写っているので、間違いなしですね。『しまたてぃ』75号で謝苅を取り上げたばかりだったので、それに間に合わなかったのが残念。
北谷町謝苅は、今は沖縄市から美浜に抜ける通過点のように思われていますが、戦後は北谷町の中心地としてにぎわった場所です。狭隘なこの地で、戦後を生き抜いてきた年輩の方も多いでしょう。
しかし、戦後の記憶が薄れつつあるのはこの地も例外ではありません。生の声を残せる時間は刻々と失われつつあります。

Okinawa 1958-1959 011
1958〜59(昭和33〜34)年の謝苅。「ジャーガル道」の奥に小さくナポリ座が見えます。
<写真提供:琉米歴史研究会>

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上の写真とほぼ同じ角度。

<三嶋>

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中村英雄さんのサバニ

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本部町健堅の中村さんを訪ね、一緒に本部町立博物館へ行きました。
そこに展示されている、中村さんの兄さんが戦後、国頭村で造らせたサバニを見るためです。
中村さんは、兄や先輩たち6人でこの舟をかつぎ、名護の山を越えて東海岸に出ると、辺野古沖で漁をしたそうです。
え? 舟をかついで山を越え、大浦湾に……って、直線でも5〜6kmはありますよ! 簡単に言わないでください、とはじめて聞いた時は絶句したものです。

驚愕の苦労をしてまで山を越えたのは、本部周辺では砲爆撃で魚がいなくなっていたからで、辺野古ではスズメダイを大量に獲り、それをコメに変えると再び舟を担ぎ、本部に帰ってきたとか。
また、西海岸で漁が出来なくなる冬場には、塩屋湾から山を越え、東村川田の海で漁をしたこともあったとか(これも半端な距離ではありません)。
しかし、さすがにあまりのキツさに2年ほどで根を上げ、逃げ出したさと笑う中村さんでした。

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中村さんと博物館に寄贈されたサバニ。

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やはり中村さんが寄贈したカツオ漁に関する資料も、たくさん展示されています。
(三嶋)

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太平橋(平良橋)の見学会

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首里平良にある太平橋(平良橋)で、発掘調査の現場説明会があるというので出かけてきました。現在の太平橋は、一昨年このコーナーで紹介し、もうすぐ無くなるよと書いたのですが、まだ残っていました(ははは)。
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2013年6月の太平橋(平良橋)。
もとの太平橋は、この橋のすぐ向こう(下流)にあったもので、川の両側に残る当時の痕跡を、今回は見学したということになります。

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石畳道の一部が残る橋の西側部分。大勢の歴史マニア(?)が詰めかけました。
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車が見える向こうの橋が現在の太平橋。すぐ手前(結構深い)が昔の橋の跡。
井戸
川の東側から出土したミーガー(新井)。
写真のずっと左側が、昔の橋のたもとになっていて、その場所で大量の赤瓦や焦げ跡が見つかったことから、ここには赤瓦の屋敷があって沖縄戦で焼けたのだろう、ということでした。
また、屋敷の西側にあったのが、共同井戸だったという写真のミーガーで、屋敷の住民も写真の手前から降りて利用していたと考えられるようです。

いやあ、70年の時を超えて現れた、生々しい生活痕が放つ存在感は相当なものがありますね。本物ですから。どんな人が、どんな思いで暮らしていたのか…。関係者がまだいらっしゃるかもしれませんし、想像がふくらみますね。
また、分かりやすい解説とともに担当者の熱意も伝わって、充実したひと時を過ごせました。素直に感謝したいですね。
<三嶋>

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