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ジャーガル(謝苅)の写真を発見

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琉米歴史研究会にある写真のなかで、昭和30年代の謝苅を写したものを見つけたため、現地で確認してきました。
今も建物が残るナポリ座(昭和28年ごろ開館)が写っているので、間違いなしですね。『しまたてぃ』75号で謝苅を取り上げたばかりだったので、それに間に合わなかったのが残念。
北谷町謝苅は、今は沖縄市から美浜に抜ける通過点のように思われていますが、戦後は北谷町の中心地としてにぎわった場所です。狭隘なこの地で、戦後を生き抜いてきた年輩の方も多いでしょう。
しかし、戦後の記憶が薄れつつあるのはこの地も例外ではありません。生の声を残せる時間は刻々と失われつつあります。

Okinawa 1958-1959 011
1958〜59(昭和33〜34)年の謝苅。「ジャーガル道」の奥に小さくナポリ座が見えます。
<写真提供:琉米歴史研究会>

DSCF9760
上の写真とほぼ同じ角度。

<三嶋>

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中村英雄さんのサバニ

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本部町健堅の中村さんを訪ね、一緒に本部町立博物館へ行きました。
そこに展示されている、中村さんの兄さんが戦後、国頭村で造らせたサバニを見るためです。
中村さんは、兄や先輩たち6人でこの舟をかつぎ、名護の山を越えて東海岸に出ると、辺野古沖で漁をしたそうです。
え? 舟をかついで山を越え、大浦湾に……って、直線でも5〜6kmはありますよ! 簡単に言わないでください、とはじめて聞いた時は絶句したものです。

驚愕の苦労をしてまで山を越えたのは、本部周辺では砲爆撃で魚がいなくなっていたからで、辺野古ではスズメダイを大量に獲り、それをコメに変えると再び舟を担ぎ、本部に帰ってきたとか。
また、西海岸で漁が出来なくなる冬場には、塩屋湾から山を越え、東村川田の海で漁をしたこともあったとか(これも半端な距離ではありません)。
しかし、さすがにあまりのキツさに2年ほどで根を上げ、逃げ出したさと笑う中村さんでした。

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中村さんと博物館に寄贈されたサバニ。

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やはり中村さんが寄贈したカツオ漁に関する資料も、たくさん展示されています。
(三嶋)

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太平橋(平良橋)の見学会

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首里平良にある太平橋(平良橋)で、発掘調査の現場説明会があるというので出かけてきました。現在の太平橋は、一昨年このコーナーで紹介し、もうすぐ無くなるよと書いたのですが、まだ残っていました(ははは)。
DSCF9080
2013年6月の太平橋(平良橋)。
もとの太平橋は、この橋のすぐ向こう(下流)にあったもので、川の両側に残る当時の痕跡を、今回は見学したということになります。

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石畳道の一部が残る橋の西側部分。大勢の歴史マニア(?)が詰めかけました。
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車が見える向こうの橋が現在の太平橋。すぐ手前(結構深い)が昔の橋の跡。
井戸
川の東側から出土したミーガー(新井)。
写真のずっと左側が、昔の橋のたもとになっていて、その場所で大量の赤瓦や焦げ跡が見つかったことから、ここには赤瓦の屋敷があって沖縄戦で焼けたのだろう、ということでした。
また、屋敷の西側にあったのが、共同井戸だったという写真のミーガーで、屋敷の住民も写真の手前から降りて利用していたと考えられるようです。

いやあ、70年の時を超えて現れた、生々しい生活痕が放つ存在感は相当なものがありますね。本物ですから。どんな人が、どんな思いで暮らしていたのか…。関係者がまだいらっしゃるかもしれませんし、想像がふくらみますね。
また、分かりやすい解説とともに担当者の熱意も伝わって、充実したひと時を過ごせました。素直に感謝したいですね。
<三嶋>

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なつかしのスキヤキ

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常連となりつつある知念の「いろは食堂」。
ふと、スキヤキがあるのに気づき、学生時代を思い出して思わず注文しました。

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甘目の醤油味の野菜炒めに、タマゴを乗せたスタイルは、かつて食べた首里の食堂とほぼ同じ。
でもスヌイ(モズク)、スープ、ご飯が付いて500円だから、学生時代より割安な感じですね。
当時は贅沢メニューのひとつだったので、あまり口にできませんでしたが、これならいつでも食べられるなあと嬉しくなったのですが、気がつけば、今度は胃袋が若いころのようには食べられないと言っています。
<三嶋>

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那覇軍港

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「産業祭」の駐車場として毎年利用される那覇軍港。
それぐらいしか使い道がないように思いますが、移転の話が進まないなか、広大な土地が相変らず放置されたままとなっています。
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ベトナム戦争当時はたくさんの米軍艦船が出入りし、戦車やトラックが並べられ、弾薬・物資が山積みとなっていました。
再びそんな事態にならないことを願います。
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1945(昭和20)年、敗戦直後の那覇港。写真提供:琉米歴史研究会。
現在の陸上自衛隊那覇駐屯地の高台あたりから撮影されています。
戦前は海岸まで集落があり、人々の暮らしがあった分けですが、隣接して海軍の小禄飛行場(現那覇空港)もあったため、周囲はことごとく破壊され、がれきが山をなしています。
当時から70年たちますが、風景はほとんど変わらず、今もって何もありません。
<三嶋>

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