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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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■お問い合せ

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バーキ交流会

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佐敷小谷でバーキ作りを続けている、知念さん親子のもとを名護の人たちが訪れ、和やかな交流が行われました。
昨年度、「沖縄ある記」も参加した南城市商工会の事業で、佐敷小谷の地域資源調査やマップ作りなどを実施しましたが、その際、竹細工について教えてもらった名護の島袋正敏さんたちと、小谷の方たちが交流できるといいなあと思っていたところなので、ちょうどいい出会いが実現した形となりました(今回、こちらは何もしていませんが)。
やはり、共通の意識のある人たちは、互いに引かれ合うということなんでしょうかね。


はじめは遠慮していた知念さんのお父さん(背中)ですが、ヤンバルから上等のタケを用意してきた客人の求めに応じ、タケを細く割きはじめました。


バーキの底ができ上がってきた段階。話をチラチラ聞いていると、名護の作り方と細かな所で多少の違いがある様子(よく分かんないけど)。
知念さんのお父さんは、簡単そうにテキパキと編んでいきますが、「手が覚えているからできるはず」と名護の方から称賛の声。お父さんが柔和な表情で作業を続けるため、よけい簡単に見えてしまいますが、ほんとはかなり難しい技のようです。


足をバーキの中に入れて行う仕上げ段階。
四方に広がっていた底からつながる竹を、巻き込みながら縁を作る(意味が分かるかな?)と完成です。竹を細く削ってから完成まで、正味2時間ぐらいだったでしょうか。
見ているこちらが飽きる間もなく、青々とした1個のバーキが完成しました。
お父さんの手さばきは、ひょうひょうとしていながらリズミカル。無駄がなく的確だと素人目にも分かります。ヤンバルの人たちから「いい勉強になりました」と感謝の言葉を贈られ、はにかんでいたのが印象的でした。
(三嶋)

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津堅島ワークショップ報告

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今年度予定している「嘉保プロジェクト」の一環で、2回目となる「津堅島ある記」を実施しました。
今回は、「キリ学(沖縄キリスト教学院大学)」の学生約10人も参加して、お年寄りとの交流や島内散策を行い、有意義な時間を共有できたと思います。時おり大雨が降る生憎の天気でしたが、若い人の参加で周囲が明るくなり、大いに助かりました。
もう一つの目的であった、地域写真展のための情報収集は今ひとつだったので、次回も継続かと考えていますが、とにかく、(初対面にも関わらず)お年寄りと学生とがにぎやかに懇談できてよかったと思います。なかでも、若い人たちが「元気をもらえた」と喜んでいたのが印象的で、戦争を生き抜いたオバアちゃんたちのパワーに、彼女たちもタジタジになったようでした。


学生は雨もたいして気にせず楽しげです。(ジジくさい言い方ですが)若さの特権ですよね。


施設のお年寄りに集まってもらい、古い写真をみながらユンタク。限られた短い時間でしたが、いろいろな話を聞くことができました。


津堅小中学校。大きくて立派な校舎が、壁画の向こうに見えますが、現在の在校生は、小学生と中学生を合わせて30人ほど。
この学校出身の嘉保博道さんが、南極観測船「宗谷」で島の沖合を通過した1959 (昭和34)年11月4日朝、近くの山から見送った全校生徒の数が500人余と当時の新聞にありますから、いかに人口が減ったかが分かりますよね。
(三嶋)

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小禄の戦後が消えていく

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『しまたてぃ』に連載している「沖縄の戦後を歩く」シリーズ取材のため、前日、小禄の五月橋や新町周辺、高良周辺を歩きました。
案内は「うるく地域づくり連絡協議会」事務局長の赤嶺和雄さん。ご自分の体験を交えながら、現場で語られる赤嶺さんの話はたいへん参考になりましたが、撮り忘れた場所や確認したいこともあったため、一人で追加取材をした次第。

さて、小禄は全体像がつかみにくい、と以前この場に書きました。
米軍に土地を追われた住民が、あちこち転居を強いられたことで、古いコミュニティと新たな近隣との関係にズレが生じ、それが解消されないまま今にいたっていることが、その要因ではないかと考えたのです(よそ者の御託かもしれません。間違っていたらごめんなさい)。
しかし、原発事故で故郷を追われた福島の人たちを想起させられますし、他にも同じような地域があるだけに、これからも留意していきたいと考えています。


「第二ゲート」バス停。
北側(写真右)の「マンガ倉庫」右付近に、施政権返還前まであったそうです。米軍基地を連想させるものは、現在まったくありませんが、米軍に替って広大な土地を占有する自衛隊基地が、写真左(国道331号西側)にあり、普通に受け入れられているようです。自衛隊の駐留や隊員の受け入れを巡り、かつて猛烈な反対運動が繰り広げられましたが、今では完全に市民権を得ているということでしょう。


「新町入口」バス停。
実際の入口は写真左に見える交差点。第二ゲートの南に広がる新町は、米兵による婦女子への犯罪を防止することを目的に、1952(昭和27)年10月に誕生した歓楽街。しばらく落ち込んでいたものの、最近は米兵に替って自衛隊員でにぎわっているとか。


「高良」バス停。
写真中央の高良三差路を左折した「高良大通り」と、さらに続く「高良市場通り」が戦後小禄の原点。那覇基地(飛行場)の建設・拡張で、土地を接収された人々や、自分の家屋に帰れない人々がこの地に居住を強いられたからです。

「高良市場前」バス停。
高良大通りから東(写真左)に続く市場は、さまざまな店舗にモノがあふれ、大勢の人が行き交った場所でした。名前だけがバス停に残る現在、かつての面影はまったく見当たりません。

都市化が進むいっぽうの小禄ですが、歩いてみると、ちょっとしたスキマに、バス停のような戦後の残滓を見ることは可能です。(どうせ少数意見でしょうが)そんな発見が面白いんじゃないかと思うんですよね。
(三嶋)

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小禄のボンヤリ感をさぐる

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『しまたてぃ』69号の取材目的で、小禄に行きました。
小禄の戦後は高良界隈を出発点とし、その北西部に開かれた宇栄原や「新部落」に、その後は街が形成されていったようです。
しかし、今までこの地とあまり接点がなかった者にとって(ボクだけど)、「小禄」と聞くと範囲がぼやけ、具体的な街の姿が浮かばないのは何故でしょう?
地元の方には怒られそうですが、この何となくよく分からないボンヤリ感は、ひょっとして、この地の出自や戦後史に根ざすものではないか、という推理をもとに今回の取材を進めようと考えています(外れたらどうしよう)。
時間がある方、いっしょに回りませんか? ご連絡ください。


戦後の香り漂う「新町」は、各地に今も残っていますが、ここ宇栄原の新町は今も元気。聞くところによると、自衛隊員でにぎわっているようです。夜の突撃取材もやろうかな(酒が飲めないけど)。


こんな所をバスが…。大嶺・国際通り・石嶺を結ぶようですが、あ〜、ルートが頭に描けない。
狭い路地に突然、蒸気機関車が現われる、つげ義春の『ねじ式』を思い出すと書くと(書いたけど)、若い人には分からないですね。


小禄は米軍那覇基地の門前町でもありました。通りから奥に入った高台などには、“外人住宅”がまだ数多く残っていますが、ほとんどは今風に改造されていて、言われないと分からないぐらい。
ボクらの事務所もそうなので、既視感が漂うエリアです。
(三嶋)

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前川から安里へ駆けつけました

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昨年から続いている(ていうか中断していた)地域マップ作成が、ようやく再開できたので、前川(南城市玉城)で追加撮影。
3時からはFMレキオの放送なので、時間を気にしながらも、あちこち撮影&確認してきました。
原稿の作成段階で、細部がどうなっていたのか思い出せなかったり、きちんと見ていなかったりすることに気付くことも多く(今さらですが)、泣きながら(ウソですが)トボトボと集落を歩いて来ました。


完成したばかりのアパートから俯瞰した中道周辺の風景。
写真左上に、“お宮”と呼ばれる集落で一番の聖地があり、ここを頂点に集落は南向きの斜面に広がっています。スージ道で碁盤目状に区切られた集落の形は、沖縄の伝統的なありようです。
また、立派な石を積み上げた屋敷囲いが、数多く残っているのもこの集落の特徴ですね。大きく重い石をここまで運び(港川から?)、コツコツと加工し、積み上げた先人の労苦は察するに余りあります。
これを見ると、「昔の人は偉い!」と誰もが素朴に感じるはずですので、是非見に行って欲しいものです(なので、ここでは写真は出しません)。


こんなトボケた味のシーサーも、村の大事は守り神。どこにあるか、捜してみるのも楽しいのでは?


月に一度の「沖縄ある記アワー」は、午後3時から4時まで放送。新都心のFMレキオに、前川からあわてて駆けつけました。
今回はゲストに真栄里泰山氏(写真中央)を招き、以前案内していただいた那覇市安里について、國吉宏昭さんと三人でユンタク。
いつものようにあまりうまく喋れないので、いつものように自信をなくしましたが、終了後にユンタクするうちに、いつものように復活。へこたれたらいかんぜよ!
●FMレキオ「沖縄ある記アワー」


安里と那覇新都心とを結ぶ新しい道路から見た、大通り(又吉道路)との交差点(写真中央付近)。
モノレールの向こうには、1960年代ごろまで田んぼが広がっていたようですが、現在の姿からは想像もつきません。
北(写真手前)に向かって歩くと、県立博物館・美術館につながるこの通りを、真栄里泰山氏は「安里坂」と命名しています。旧市街と新都心が直結する数少ない道路ですが、機能性だけではなく、彫刻などを置いて博物館・美術館へのアプローチ道と位置づけたら、市民にもっと親しまれる通りになると真栄里氏は語っていました。
意義ナシです。
(三嶋)

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