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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
沖縄ある記
(地域文化支援ネットワーク)

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FMレキオは「コレな〜に」

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毎月第3金曜日は、恒例FMレキオの「沖縄ある記」放送の日。今回は、現在、試作を進めている動画コンテンツ「コレな〜に」を取り上げ、國吉さんと紹介&ユンタクしました。
これは、以前から実験していた自前の番組作りの一環で、各地の文化施設や組織などを毎月訪れ、自分たちで撮影・編集した動画コンテンツを、ネットで配信しようというもの。
器材やソフトが廉価になり、受発信の環境が整ってきたことが追い風ですが、素人でも工夫すれば面白い動画コンテンツが作れるし、そのノウハウを蓄積すれば、予算のない博物館などのサポートを市民が担うこともできるだろうと考えたからです。
こういうと結構大げさですが、こちらも金はないので、低コストで高パフォーマンスの実現を目指した努力は必須でしょうね。
また、アナログに対応できる人間力を持った人材育成や、そのための体制づくりも重要でしょう。
地域の先輩方はほとんどがアナログ世界の住人ですし、ITやらPCやらを受け付けない人たちの知見や、ジンブン(生活文化)を引き出して記録することこそが、われわれの火急的課題だと思うからです。
見栄えよりも地域と真摯に向き合い、そこに生きる人たちの足跡や記憶を拾う作業を重視したいですよね。なので、手づくり映像コンテンツ製作という選択は、必然ともいえるのではないでしょうか。
とはいえ、われらがNPO代表・國吉宏昭(ヒロくん)が、ナビ役として登場(予定)する「コレな〜に」シリーズが、今後どう転がっていくのか、ホントはチョッピシ心配なのです。

ラジオのパーソナリティーがすっかり板についた國吉さん(左)。2時台から引き続いて、3時代の「沖縄ある記」に出演。今回は居眠りナシでした。
(三嶋)

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バーキ交流会

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佐敷小谷でバーキ作りを続けている、知念さん親子のもとを名護の人たちが訪れ、和やかな交流が行われました。
昨年度、「沖縄ある記」も参加した南城市商工会の事業で、佐敷小谷の地域資源調査やマップ作りなどを実施しましたが、その際、竹細工について教えてもらった名護の島袋正敏さんたちと、小谷の方たちが交流できるといいなあと思っていたところなので、ちょうどいい出会いが実現した形となりました(今回、こちらは何もしていませんが)。
やはり、共通の意識のある人たちは、互いに引かれ合うということなんでしょうかね。


はじめは遠慮していた知念さんのお父さん(背中)ですが、ヤンバルから上等のタケを用意してきた客人の求めに応じ、タケを細く割きはじめました。


バーキの底ができ上がってきた段階。話をチラチラ聞いていると、名護の作り方と細かな所で多少の違いがある様子(よく分かんないけど)。
知念さんのお父さんは、簡単そうにテキパキと編んでいきますが、「手が覚えているからできるはず」と名護の方から称賛の声。お父さんが柔和な表情で作業を続けるため、よけい簡単に見えてしまいますが、ほんとはかなり難しい技のようです。


足をバーキの中に入れて行う仕上げ段階。
四方に広がっていた底からつながる竹を、巻き込みながら縁を作る(意味が分かるかな?)と完成です。竹を細く削ってから完成まで、正味2時間ぐらいだったでしょうか。
見ているこちらが飽きる間もなく、青々とした1個のバーキが完成しました。
お父さんの手さばきは、ひょうひょうとしていながらリズミカル。無駄がなく的確だと素人目にも分かります。ヤンバルの人たちから「いい勉強になりました」と感謝の言葉を贈られ、はにかんでいたのが印象的でした。
(三嶋)

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津堅島ワークショップ報告

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今年度予定している「嘉保プロジェクト」の一環で、2回目となる「津堅島ある記」を実施しました。
今回は、「キリ学(沖縄キリスト教学院大学)」の学生約10人も参加して、お年寄りとの交流や島内散策を行い、有意義な時間を共有できたと思います。時おり大雨が降る生憎の天気でしたが、若い人の参加で周囲が明るくなり、大いに助かりました。
もう一つの目的であった、地域写真展のための情報収集は今ひとつだったので、次回も継続かと考えていますが、とにかく、(初対面にも関わらず)お年寄りと学生とがにぎやかに懇談できてよかったと思います。なかでも、若い人たちが「元気をもらえた」と喜んでいたのが印象的で、戦争を生き抜いたオバアちゃんたちのパワーに、彼女たちもタジタジになったようでした。


学生は雨もたいして気にせず楽しげです。(ジジくさい言い方ですが)若さの特権ですよね。


施設のお年寄りに集まってもらい、古い写真をみながらユンタク。限られた短い時間でしたが、いろいろな話を聞くことができました。


津堅小中学校。大きくて立派な校舎が、壁画の向こうに見えますが、現在の在校生は、小学生と中学生を合わせて30人ほど。
この学校出身の嘉保博道さんが、南極観測船「宗谷」で島の沖合を通過した1959 (昭和34)年11月4日朝、近くの山から見送った全校生徒の数が500人余と当時の新聞にありますから、いかに人口が減ったかが分かりますよね。
(三嶋)

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小禄の戦後が消えていく

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『しまたてぃ』に連載している「沖縄の戦後を歩く」シリーズ取材のため、前日、小禄の五月橋や新町周辺、高良周辺を歩きました。
案内は「うるく地域づくり連絡協議会」事務局長の赤嶺和雄さん。ご自分の体験を交えながら、現場で語られる赤嶺さんの話はたいへん参考になりましたが、撮り忘れた場所や確認したいこともあったため、一人で追加取材をした次第。

さて、小禄は全体像がつかみにくい、と以前この場に書きました。
米軍に土地を追われた住民が、あちこち転居を強いられたことで、古いコミュニティと新たな近隣との関係にズレが生じ、それが解消されないまま今にいたっていることが、その要因ではないかと考えたのです(よそ者の御託かもしれません。間違っていたらごめんなさい)。
しかし、原発事故で故郷を追われた福島の人たちを想起させられますし、他にも同じような地域があるだけに、これからも留意していきたいと考えています。


「第二ゲート」バス停。
北側(写真右)の「マンガ倉庫」右付近に、施政権返還前まであったそうです。米軍基地を連想させるものは、現在まったくありませんが、米軍に替って広大な土地を占有する自衛隊基地が、写真左(国道331号西側)にあり、普通に受け入れられているようです。自衛隊の駐留や隊員の受け入れを巡り、かつて猛烈な反対運動が繰り広げられましたが、今では完全に市民権を得ているということでしょう。


「新町入口」バス停。
実際の入口は写真左に見える交差点。第二ゲートの南に広がる新町は、米兵による婦女子への犯罪を防止することを目的に、1952(昭和27)年10月に誕生した歓楽街。しばらく落ち込んでいたものの、最近は米兵に替って自衛隊員でにぎわっているとか。


「高良」バス停。
写真中央の高良三差路を左折した「高良大通り」と、さらに続く「高良市場通り」が戦後小禄の原点。那覇基地(飛行場)の建設・拡張で、土地を接収された人々や、自分の家屋に帰れない人々がこの地に居住を強いられたからです。

「高良市場前」バス停。
高良大通りから東(写真左)に続く市場は、さまざまな店舗にモノがあふれ、大勢の人が行き交った場所でした。名前だけがバス停に残る現在、かつての面影はまったく見当たりません。

都市化が進むいっぽうの小禄ですが、歩いてみると、ちょっとしたスキマに、バス停のような戦後の残滓を見ることは可能です。(どうせ少数意見でしょうが)そんな発見が面白いんじゃないかと思うんですよね。
(三嶋)

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小禄のボンヤリ感をさぐる

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『しまたてぃ』69号の取材目的で、小禄に行きました。
小禄の戦後は高良界隈を出発点とし、その北西部に開かれた宇栄原や「新部落」に、その後は街が形成されていったようです。
しかし、今までこの地とあまり接点がなかった者にとって(ボクだけど)、「小禄」と聞くと範囲がぼやけ、具体的な街の姿が浮かばないのは何故でしょう?
地元の方には怒られそうですが、この何となくよく分からないボンヤリ感は、ひょっとして、この地の出自や戦後史に根ざすものではないか、という推理をもとに今回の取材を進めようと考えています(外れたらどうしよう)。
時間がある方、いっしょに回りませんか? ご連絡ください。


戦後の香り漂う「新町」は、各地に今も残っていますが、ここ宇栄原の新町は今も元気。聞くところによると、自衛隊員でにぎわっているようです。夜の突撃取材もやろうかな(酒が飲めないけど)。


こんな所をバスが…。大嶺・国際通り・石嶺を結ぶようですが、あ〜、ルートが頭に描けない。
狭い路地に突然、蒸気機関車が現われる、つげ義春の『ねじ式』を思い出すと書くと(書いたけど)、若い人には分からないですね。


小禄は米軍那覇基地の門前町でもありました。通りから奥に入った高台などには、“外人住宅”がまだ数多く残っていますが、ほとんどは今風に改造されていて、言われないと分からないぐらい。
ボクらの事務所もそうなので、既視感が漂うエリアです。
(三嶋)

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