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はじめの放送局

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インターネットの普及で、世界はずいぶん狭くなったと感じる昨今だが、敗戦ですべてを失った戦後の沖縄では、情報が入らないなかで、人々は島流しにあったように感じていたらしい。

そんななか、一般向けのラジオ放送が1949(昭和24)年5月16日に復活する。

しかし、この日は2時間のテスト放送で、本放送は翌年1950(昭和25)年1月21日から始まった。米国民政府民間情報部にいた川平朝申を中心に進められたもので、琉球放送局、AKARと呼ばれた。

その戦後はじめてラジオ番組を送信した場所が、具志川村栄野比だったことを知る人は、今では少なくなっているようだが、その建物は一部が今も残っている。

戦後間もない頃の栄野比の家
(写真:沖縄県公文書館)

昨年、里帰りされた、沖縄のアナウンサー第1号となる川平朝清さんに確かめると、東恩納博物館のW・A・ハンナさんが住んでいたこの家に、自分もしばらく住んでいたとのこと。写真に見える家の奥側が少し高くなっていて、送信所があった。

現在も残る栄野比の家

前述のハンナさんと親交があった、琉米歴史研究会の喜舎場静夫さんによると、この家は、ハンナさんが身長に合わせて入り口や天井を高くさせたとのことで、なるほど、その通りの作りになっているし、一般の琉球家屋と異なる石積みの壁があるなど、当時の忍ぶ部分があちこち残っていて面白い。

家の裏側には暖炉と煙突も残っているが、防音工事で壁が作られたため現在は見えなくなっているらしい。

同じ家の前で撮影された上原栄子さん
(写真:琉米歴史研究会)

撮影時期など詳細情報が分からない写真だが、川平朝清さんの話から上原さんと確認することができた。

那覇の辻遊郭で育った彼女は、戦後、料亭「松乃下」を開業したり、自身をモデルにした演劇「八月十五夜の茶屋」で話題となった人物。

何気なく見ていた写真に、予想外の有名人が写っていて驚かされたが、敗戦直後は沖縄の中心地だった石川や栄野比のにぎわいが、かすかに浮かんでくるようである。

<三嶋>

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