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消えゆく旧東恩納博物館

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琉米歴史研究会の喜舎場静夫さんと、久しぶりに帰沖された川平朝清さん(91歳)を迎え、うるま市石川の旧東恩納博物館を訪れた。

県立博物館の出発点となった場所だが、最近、取り壊しが決まったことから、同館で通訳を勤めていた川平さんに喜舎場さんが知らせ、最後の「別れ」をセッティングしたもの。同時に、次世代にも伝えたいと、沖縄尚学高校や広島・大阪の高校生に向けたワークショップも行われたので、有意義なひと時に立ち会わせていただいた。

中央・川平朝清さん、右端・喜舎場静夫さん

旧東恩納博物館を訪れた高校生たち

旧東恩納博物館は、1945(昭和20)年8月、米国海軍政府のワトキンス政治部長・ハンナ教育部長らにより、石川市東恩納に沖縄陳列館として設立された。

戦前は大学教授だったハンナ少佐(博士)らは、琉球文化の素晴らしさに敬意を払い、戦火で失われたその復興を願うと、首里城や円覚寺の焼け跡を自らまわり、数々の美術工芸品等を拾い集めてその保存と陳列を図ったほか、芸能復興や教科書編さんなどにも努めた。

ハンナ少佐はわずか1年ほどの滞在だったのだが、打ちひしがれていたウチナーンチュが勇気と誇りを取り戻すことを願い、寄り添うための努力を惜しまなかった。破壊と殺戮ばかりではなく、そんな心ある米軍人もいたのである。

現在の県立博物館に収蔵されている戦前の品々の多くは、この沖縄陳列館(東恩納博物館)由来なのだが、その原点ともいうべき場所が、今、失われようとしている。

1946(昭和21)年ごろの東恩納博物館(上)とその庭(下)
<写真:琉米歴史研究会>

現在の建物と瓦礫に埋まった庭

朝鮮戦争を契機として戦後復興を成し遂げた日本社会は、高度成長期を経て、今もなお(すでに破綻しているという声をよそに)米国を中心とする「強欲資本主義」を追認している。

「本土並み」の平和と暮らしを希求した沖縄も、本土と同化するかたちで経済成長路線をひた走ってきたのであるが、その陰で、沖縄らしい自然や文化、芸術を重視して来た人たちの声は、疎んじられて来た。ウチナーンチュの魂や誇りをそこに見出し、次世代に残す責務があるという指摘はかき消されて来たのである。

その意味でも、東恩納博物館の功績は讃えられてしかるべきだろう。

しかし、那覇新都心の中心部にできた、新しい県立博物館・美術館のにぎわういとは対照的に、原点ともいうべきこの場所は、収蔵品が首里の博物館に移動して以来、役割を終えた場所として放置されてきた。

個人所有であったことがその理由と思われるが、沖縄の戦後史を語る公的な建造物として位置付け、何らかの形で保存・活用することはできなかったのか。

その責を行政に求めるのは容易いのだが、市民・県民の後押しが足りなかったのも事実だ。自分もふくめた県民一人ひとりに、地域の歴史・文化に対する自覚が不足していた、と反省するのである。

足元にある先人の遺産をないがしろにして、地域の未来を築くことはできない。

関係者をふくめて、一人ひとりがこの建物と場所を失うことになった事実を、重く受け止める必要があると思うのである。

<三嶋>

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