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我謝あるき

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西原町が、かつては那覇の泊や天久・勝連町・津堅島までも含む、広大な面積だったことをご存知だろうか。

廃藩置県後の1908(明治41)年に西原村は誕生するが、そのころ首里の儀保・末吉・平良・石嶺が分離し、現在とほぼ同じ面積になったとされる。地図で見ると、相当な面積があったことが分かるだろう。

今回、歩くことになった我謝は、個人的にはあまり馴染みがない土地だったが、教育委員会の山崎真由美さんが地元であり、周辺はよく知っているということで案内をお願いすることにした。

我謝を訪れ、驚かされたことに車の通行量が多いことがある。東海岸と首里をむすぶ「抜け道」のようになっているためか車が多く、歩道がほとんどないこともあって、大勢で歩くには注意が必要であった。

調べてみると、この混雑は部落の西南に位置するゴルフ場ができてからのようで、子どもたちの危険を避けるため、公民館側に遊び場を建設すると書かれている(1966年7月27日沖縄タイムス)。公民館の横に現在も広がる空間である。

我謝公民館前の通り。中央が公民館。

西原町は戦前、キビ作が多い純農村地帯だった。それは1907(明治40)年、同区に県立農事試験場が置かれ、翌年に沖縄初の製糖工場ができた影響で、戦後もキビ作が多かったため機械化が進んだと書かれている。

しかし、現在の我謝の街並みを見ていると、かつての農村地帯のイメージはなく、かつての集落の名残をとどめつつも都市化が進んでいる。碁盤目型の路地の痕跡と、新しい住宅やビルが同居しているような印象であった。

住宅地を歩く。

我謝は集落の北側に位置する高台や、南西部の運玉森に発する水脈があるのだろうか、あちこちにカーが残り、水は豊富だったようだが、他の地域同様、それらのカーが農業用水以外で使われることはなく、拝みの対象でしかないようである。

地元のマカーという人が造ったとされるマカーガー。
道路が拡幅されて車が多く通るようになり、かつての面影は失われている 。
街中に今も残るカーの跡。かつては社交の場としても、にぎわっていたに違いない。

我謝の集落北側にある丘陵地は、かつては大きな3本の松の木がある山で、クガニムイ(黄金毛)とか我謝毛と呼ばれていた。

我謝の集落発祥の地とされ、イーヌダキ(上ヌ嶽)を配する聖地とも呼べる場所だったが、本土復帰前直前、アメリカの石油企業エッソ・スタンダードの社宅用地となり、分譲住宅団地「西原ハイツ」となった歴史がある。そのため、火ヌ神などが南側の斜面に移され、現在は「我謝の殿」として拝まれている。

エッソの社宅建設に際して、13~14世紀ごろの中国製陶磁器などが大量に出土していることから、この地にかつて有力な人物のグスクがあり、海外交易も行っていたのか?と、ロマンを掻き立てられるのだが、現在のところ確証はないようだ。

しかし、地域の聖地が、企業立地に際して(買い取られたのか?)移動したという話は、よそではあまり聞いたことがない。本土復帰のころに吹き荒れた外部資本の沖縄流入の嵐は、与勝半島のCTSなどの例がよく知られるが、同時期にこの地でも、長年の暮らしを変える出来事が起こっていたことにショックを受けたが、当時の新聞を見ても問題視されていないようで不思議である。

しかし、地域の聖地が、企業立地に際して(買い取られたのか?)移動したという話は、あまり聞いたことがないように思う。

本土復帰のころに吹き荒れた、外部資本流入に起因して巻き起こった住民の抵抗の嵐は、与勝半島のCTS阻止闘争などが知られるが、同時期にこの地でも同様の事例があったことにショックを受けた。そして、そのことをほとんど知らなかった自分の無知を恥じた。

それにしても、当時の新聞などでもあまり取り上げられていないようで、本土復帰が迫る時期のゴタゴタで、これらの問題が覆い隠されたのだろうかと訝しく思った。

イーヌダキ(上ヌ嶽)が破壊されたあと移動して、火ヌ神を合祀する「我謝の殿」。
エッソ製油所地鎮祭に合わせて作られたと思われるゲート。
1969(昭和44)年10月(写真:沖縄県公文書館)
完成したエッソ製油所。
1970(昭和45)年(写真:沖縄県公文書館)

我謝で有名なもののひとつに、今も盛んに行われている綱曳がある。

今回、案内をしていただいた山崎さんも、綱曳には小さな時から親しみ、論文を書いたほどで、綱曳前の準備から当日の模様も熱心に語ってもらった。

我謝に伝わる綱曳の由来は以下のようなものである。

昔、我謝一帯の農地は、我謝の創始となるニーヤー(根屋)の上神座(屋号:イーカンザ)の兄弟二人が二分して耕作し、その収穫量を張り合っていたが、ある時から、稲ワラで作った綱を引いて勝負することになり、兄がリンゴー与(雄綱)、弟がウフカー与(雌綱)に別れて引き合ったというのである。

戦前までの綱曳は、門中によってどちらの綱を引くかが決められていたが、現在は班ごとに別れて引いているそうだ。また、稲作が途絶えてしまった現在、綱にするワラは金武町伊芸から購入していると聞いた。

いにしえの集落の形を随所に残しながらも、現在の我謝はマチ化しており、農村だったころの風景は見えなくなっている。決して都市化が悪いと言うわけではないが、農村のイメージを持っていただけにそれは意外ではあった。

クガニムイで中国製陶器が出土したことや、我謝の「謝」が、海岸にできた集落名をあらわすことから、今よりもずっと海岸が近く交易も盛んだったのだろうと、昔の姿を思い描こうとしたが、すでに水田が消え、農地も減り、カーだけが残る現状を前に、のどかだったころのシマを想像することは難しかった。

<三嶋>

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