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南海の塔

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今帰仁村湧川にある戦争慰霊碑「南海の塔」に行ってきた。

1963(昭和38)年5月10日の琉球新報に、大分に住む父親が嵐山で戦死した息子の供養に慰霊観音像を建て、息子と戦友の霊を弔ったという記事があったからである。

弔われているのは、1945年6月18日に戦死した大分県日田市出身の海軍中尉、武下一氏と12人の戦友。

南海の地に散った息子を偲ぶ親の心情や、その願いを受けて建立に動いた地元の方々の行動を、“心温まる話題”として記事は構成されている。

しかし、昭和20年春には、敗残兵となった日本軍兵士が、地元民の食糧強奪や虐殺といった事件を各地で引き起こしている。

調べていると、2005(平成17)年12月28日の沖縄タイムス朝刊で、米軍が記録した旧日本兵の軍用手帳に、「スパイ殺害」の記述があることが確認されたことを発見。その手帳の持ち主が「竹下ハジメ」だという。

スパイ殺害は昭和20年4月17日。八重岳から多野岳に移動中の出来事のようだ。

翌4月18日には、本部国民学校校長の照屋忠英氏が、スパイ容疑で日本軍に殺害されるなど、日本兵は各地で住民虐殺を行っているが、日本兵自身の記録が確認されたのはこれが初めてだという。

新聞掲載の写真では観音像の周りに何もないが、57年経った現在、周囲は雑木で覆われ、場所を探すのにも一苦労した。

台座には「南海乃供養塔」と刻まれている観音像

前回紹介した渡野喜屋や本部半島以外にも、日本兵による住民の「スパイ殺害」事件は各地で証言されている。

しかし、ネットにある「三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 特別番外編:『沖縄スパイ戦史』マップ」を読むと、武下一中尉23歳は、意外にも礼儀正しく思いやりがある好青年で、人間的な魅力のある若者だと地元民から信頼されていたようだ。

また、一人息子を失った父親は、遺骨を集めてくれた湧川の青年団に感激し、軍民問わずにほかの戦死者も祀る慰霊塔を私費で建立したいと南海の塔を建立したという。そして毎年、慰霊祭に訪れ、地元の小学校に書籍を寄贈するなど、地元の人たちと深く交流を保ったと記されている。

旧日本兵が沖縄各地で非道を重ね、住民に恐れられていたことは事実だ。

だがしかし、個人としての日本兵の平時の素顔は、平穏な日常を生きる庶民でもあったはずだ。

極悪非道な殺人鬼としてくくれるなら、分かりやすい話であるが、軍隊という組織に身を置き、戦争という極限状況に追い込まれた時、天使は容易に悪魔に変貌する。

そして、若くして逝った息子を弔う親の心情を思うと、戦争の非情さに改めて息苦しさを覚えたのである。

1945(昭和20)年9月3日。米軍に投降する第27魚雷艇隊(白石部隊)。
写真:沖縄県公文書館

米軍の攻撃ですべての艇を失った本部半島の海軍部隊は、海から陸に上がって宇土部隊の支配下に入った。

武下中尉らが支配下に入った第27魚雷艇隊(白石部隊)は、住民虐殺や食糧強奪を繰り返し、住民を恐怖に陥れていたが9月3日、名護市古我地において183名が投降した。

9月3日の白石部隊の投降に際し、数日前から日米両軍と調整し、通訳も務めた比嘉善雄・古我知村長。
写真:沖縄県公文書館

第27魚雷艇隊の投降をサポートした比嘉善雄氏は、戦後、沖縄文教学校外語部教師を務め、1947(昭和22)年7月には第1回世界キリスト教大会に出席するため、第1号となるパスポートを取得。

1952(昭和27)年に沖縄キリスト教連盟理事長に就任。志喜屋知事の専属秘書兼公式通訳官、比嘉秀平・当間重剛両主席のもとで、東京事務所長などを務めた。

1985(昭和60)年12月、81歳で死去している。

 

また、第27魚雷艇隊の人々は、1975(昭和50)年11月23日、湧川にある慰霊塔で30年ぶりに慰霊祭を実施した。

出席した生存者27人、遺族約40人は、そのあと湧川区民を招いて交換会を開催し、旧交を温めて当時を懐かしんだと書かれている。(沖縄タイムス1975年11月26日夕刊)

<三嶋>

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