せめてデモぐらい
2015年10月21日 Category: Myある記 Comment : 0
国際反戦デー沖縄県集会に参加。県民広場の集会後、国際通りをデモ行進してきました。
辺野古も気になったまま時間がつくれないため、せめてデモぐらいはという気分。
労働組合の組合員が中心ですので、市民はさほど多くないようでしたが、観光客は別にしてももう少し自分に引きつけて考えて欲しいとも正直思いますね。
何をしても社会・体制は変わらないさ、とはよく聞くフレーズですが、真綿で首を締められている感がある昨今の圧力に対して、自分が変えられていないことを試し、示す機会ではあるように思います。
<三嶋>
今泊の散策会
2015年10月18日 Category: Myある記 Comment : 0
名護博物館友の会(今年は会費を払ったのでボクも会員)の行事に参加し、今帰仁村今泊を歩いてきました。
今回は、今帰仁グスクを学ぶ会の大城さんの案内で、同地の歴史を知ることができ、勉強になりました。
志慶間川沿いの道。右側にはかつて、田んぼが広がっていたそうです。
美しいフクギ並木や石積みが残る今泊の集落内。清潔で整然とした落着きを感じるのは、今帰仁グスクと歴史をともにしてきた故でしょうか。
以前から気に入っている今帰仁グスク交流センターのトイレ。
外の木々を目の前にした半屋外の空間には、感動すら覚えます。
沖縄でもっとも好きなトイレかもしれません。
女子の方がどうなっているか気になりますが、そこまではねえ。
<三嶋>
健堅に流れ着いた遺体
2015年10月5日 Category: Myある記 Comment : 0
本部町健堅に住む中村英雄さんのお宅で、聞き取り&ユンタクしてきました。
中村さんはさまざまな体験をされていて、興味をそそられる話が目白押しなんですが、今回は戦時中、近くの浜に流れ着いた日本兵の遺体について、現場を案内してもらいながら、お話を聞かせてもらいました。
それは1945(昭和20)年2月のことで、近くの渡久地港の入口付近で沈んだ輸送船「金剛丸」に乗っていた、陸軍の軍属らしいと中村さんは語っています。
遺体は駐屯していた宇土部隊の兵士が焼いて葬ったのですが、当時中学生だった中村さんも手伝わされたので、今でも覚えているようです。
しかし、戦後、中村さんが本土から戻ってみると、立てられていた墓標は米軍によって引き抜かれ、遺骨を埋めた場所は埋め立てられていました。
以来、遺骨のことは気になったものの、日々の生活に追われるうちに年月が経ってしまったとのこと。しかし、当時のことを知る人がいなくなった現在、自分が伝えなければ、あの兵隊たちは忘れられてしまうと危惧しています。
『LIFE』1945年5月28日号に掲載された現場写真(資料提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
14名の墓標があり、陸軍軍属誰々と氏名も鮮明に見えます。向いは瀬底島。
上記写真の場所を、海側から見た写真。
遺骨を葬った場所は土砂に埋もれ、樹木が覆っているため近づくことが出来ません。
遺体が流れ着いたころは白い砂浜だった場所。
金剛丸に乗っていた方が戦後一人訪ねてきたそうですが、すっかり変わった景観に驚いていたといいます。
若い時分にはウミンチュ(漁師)だった中村さんによれば、この辺の海にはジュゴンも普通にいたそうですが、海洋博の工事が始まって姿が消えたということです。
戦争や開発によって汚れ、壊されてきた海を目の前に、日々を過ごす中村さんの胸中を思わずにはいられません。
<三嶋>
よみがえるアカバンタ
2015年10月4日 Category: Myある記 Comment : 0
南城市佐敷の手登根(てどこん)にある、アカバンタに初めて行ってきました。
この場所は、長いあいだ草木に覆われて踏み込めない状態だったのですが、昔のような絶景ポイントとして復活させようと地域の有志が集まって整備したもの。
9月26日の夜には、「アカバンタ毛遊び復活祭」を開催する予定でしたが、台風の影響で直前に急きょ使えなくなり、一同ガックリ。公民館に場所を移して祭は行われたものの、関係者はショックを引きずっているようでした。
アカバンタからの眺望。目の前に中城湾。西原・中城が近くに見えます。
9月26日、手登根公民館に場所を変えて行われた「アカバンタ毛遊び復活祭」。
月見を兼ねた祭が実現できずみなさん悔しがっていましたが、祭にかける区民の団結力と熱気には驚かされますね。
琉球王国時代、首里王府では最高位の神女である聞得大君が新たに決まると、首里から知念の斎場御嶽までおもむき、任命式を執り行っていましたが、その途中にあって多くの神女たちが往来した場所がアカバンタでした。
アカバンタは知念と佐敷をむすぶ古道の一部であり、歴史の舞台となった道でもある分けです。
また、戦後になっても、知念から佐敷・与那原に抜ける近道だったという話も、複数の方から聞きました。
知念に住む70代の方は、毎日この道を通って手登根に下り、知念高校(与那原)までバスで通ったと語っています。
直線距離では約3kmぐらいですが、山を一つ越える通学は容易ではなかったはずですが、海岸沿いに知念半島を回るより時間と運賃を節約できた分けですから、そちらを優先させたということですね。
しかし、帰りは通らなかったというので分けを聞くと、ハブのせいだそうです。
すぐそばにある風力発電施設がアカバンタの目印。
<三嶋>
貝と沖縄
2015年9月25日 Category: Myある記 Comment : 0
リュウグウオキナエビスについて書いてから以後、貝と沖縄について少し調べてみました。
沖縄ははるか昔からさまざまな貝類を捕獲し、利用してきた所です。
古代には、北海道や朝鮮・中国にまで、夜光貝やゴホウラガイといった貝が運ばれています。
南の海でしか得ることが出来ない貝は今よりはるかに高い価値をもつものであり、その輝きは多くの人を魅了したに違いありません。
戦後初の民間輸出貿易品は、ボタンの原料となる貝殻でした(うるま新報1950.06.28)し、世界遺産に登録された岩手県の中尊寺金色堂でも、戦後の修復工事の際には沖縄の夜光貝が取り寄せられ、建立時と同じように螺鈿の原料として使われたようです(琉球新報1966.9.22)。
また、戦後の風景として、恩納村などの道路沿いでは、近海で採れた貝殻を米軍人に売る子どもたちの姿があったようですし、貝のコレクターや研究家も多かったようです。
※関連写真
REMEMBERING OKINAWA HISTORY
写真は1951(昭和26)年12月、米国民政府副長官ビートラー少将への陳情に、宮古平良市長らが貝の標本を持参してキャンプ桑江を訪問した際のもの(沖縄タイムス1978.09.20夕刊「カメラ戦後史167」)。
写真手前の箱が「千年貝、万年貝など宮古特産の珍しい貝標本」でしょう。
贈られたビートラー少将は大喜びしたようですが、現在の感覚では、正直「え?」っていう感じですよね。
でも、貝が食料であり、商品であり、価値あるコレクションになり得た時代は、それだけ豊かな自然環境が身近にあった証でしょう。幸せな時代だったのかもしれません。
<三嶋>