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特定非営利活動法人
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なつかしのスキヤキ

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常連となりつつある知念の「いろは食堂」。
ふと、スキヤキがあるのに気づき、学生時代を思い出して思わず注文しました。

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甘目の醤油味の野菜炒めに、タマゴを乗せたスタイルは、かつて食べた首里の食堂とほぼ同じ。
でもスヌイ(モズク)、スープ、ご飯が付いて500円だから、学生時代より割安な感じですね。
当時は贅沢メニューのひとつだったので、あまり口にできませんでしたが、これならいつでも食べられるなあと嬉しくなったのですが、気がつけば、今度は胃袋が若いころのようには食べられないと言っています。
<三嶋>

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那覇軍港

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「産業祭」の駐車場として毎年利用される那覇軍港。
それぐらいしか使い道がないように思いますが、移転の話が進まないなか、広大な土地が相変らず放置されたままとなっています。
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ベトナム戦争当時はたくさんの米軍艦船が出入りし、戦車やトラックが並べられ、弾薬・物資が山積みとなっていました。
再びそんな事態にならないことを願います。
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1945(昭和20)年、敗戦直後の那覇港。写真提供:琉米歴史研究会。
現在の陸上自衛隊那覇駐屯地の高台あたりから撮影されています。
戦前は海岸まで集落があり、人々の暮らしがあった分けですが、隣接して海軍の小禄飛行場(現那覇空港)もあったため、周囲はことごとく破壊され、がれきが山をなしています。
当時から70年たちますが、風景はほとんど変わらず、今もって何もありません。
<三嶋>

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せめてデモぐらい

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国際反戦デー沖縄県集会に参加。県民広場の集会後、国際通りをデモ行進してきました。
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辺野古も気になったまま時間がつくれないため、せめてデモぐらいはという気分。
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労働組合の組合員が中心ですので、市民はさほど多くないようでしたが、観光客は別にしてももう少し自分に引きつけて考えて欲しいとも正直思いますね。
何をしても社会・体制は変わらないさ、とはよく聞くフレーズですが、真綿で首を締められている感がある昨今の圧力に対して、自分が変えられていないことを試し、示す機会ではあるように思います。
<三嶋>

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今泊の散策会

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名護博物館友の会(今年は会費を払ったのでボクも会員)の行事に参加し、今帰仁村今泊を歩いてきました。
今回は、今帰仁グスクを学ぶ会の大城さんの案内で、同地の歴史を知ることができ、勉強になりました。
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志慶間川沿いの道。右側にはかつて、田んぼが広がっていたそうです。
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美しいフクギ並木や石積みが残る今泊の集落内。清潔で整然とした落着きを感じるのは、今帰仁グスクと歴史をともにしてきた故でしょうか。
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以前から気に入っている今帰仁グスク交流センターのトイレ。
外の木々を目の前にした半屋外の空間には、感動すら覚えます。
沖縄でもっとも好きなトイレかもしれません。
女子の方がどうなっているか気になりますが、そこまではねえ。
<三嶋>

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健堅に流れ着いた遺体

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本部町健堅に住む中村英雄さんのお宅で、聞き取り&ユンタクしてきました。
中村さんはさまざまな体験をされていて、興味をそそられる話が目白押しなんですが、今回は戦時中、近くの浜に流れ着いた日本兵の遺体について、現場を案内してもらいながら、お話を聞かせてもらいました。

それは1945(昭和20)年2月のことで、近くの渡久地港の入口付近で沈んだ輸送船「金剛丸」に乗っていた、陸軍の軍属らしいと中村さんは語っています。
遺体は駐屯していた宇土部隊の兵士が焼いて葬ったのですが、当時中学生だった中村さんも手伝わされたので、今でも覚えているようです。

しかし、戦後、中村さんが本土から戻ってみると、立てられていた墓標は米軍によって引き抜かれ、遺骨を埋めた場所は埋め立てられていました。
以来、遺骨のことは気になったものの、日々の生活に追われるうちに年月が経ってしまったとのこと。しかし、当時のことを知る人がいなくなった現在、自分が伝えなければ、あの兵隊たちは忘れられてしまうと危惧しています。
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『LIFE』1945年5月28日号に掲載された現場写真(資料提供:NPO法人琉米歴史研究会)。
14名の墓標があり、陸軍軍属誰々と氏名も鮮明に見えます。向いは瀬底島。

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上記写真の場所を、海側から見た写真。
遺骨を葬った場所は土砂に埋もれ、樹木が覆っているため近づくことが出来ません。
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遺体が流れ着いたころは白い砂浜だった場所。
金剛丸に乗っていた方が戦後一人訪ねてきたそうですが、すっかり変わった景観に驚いていたといいます。

若い時分にはウミンチュ(漁師)だった中村さんによれば、この辺の海にはジュゴンも普通にいたそうですが、海洋博の工事が始まって姿が消えたということです。
戦争や開発によって汚れ、壊されてきた海を目の前に、日々を過ごす中村さんの胸中を思わずにはいられません。
<三嶋>

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