塩屋・奥を歩きました
2012年9月8日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
久しぶりとなった第2土曜日の定例活動。名護の宮城一夫さんの案内で塩屋を歩き、辺土名で昼食後、奥の村を前区長の島田さんの案内で歩きました。
地元の方との同行は今さらながら面白く、「ここだけの話」もあるので油断がなりません。ピーカンの天気にかなり疲れましたが、タダで楽んで申し訳ないほど充実した1日でした。
もうひとつ気になっていたのは、座津武(ざつん)橋。1936(昭和11)年5月に架けられたコンクリート橋を、みんなで見ようと思っていたのです。
ところが!
現在、国頭の国道58号線は護岸を強化するのか、どこも道路工事中。立ち入り禁止でもあり、車を止めることもかなわず、まだ架かっていることを車上から確認しただけでした。
でも、すぐ北側には新しい座津武トンネルも建設されていたので、たぶんこの橋も新しく掛け替えられるのではないでしょうか。
(ということは、この姿が見られるのは今だけか?)
海風にさらされながら、完成後70年以上が経過したこの橋を惜しむのは、ボクだけでしょうか(嗚呼)
(三嶋)

フリオさんの彫刻
2012年8月31日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
「新都心かわら板」9月号で、那覇国際高校にあるゴヤ・フリオさんの彫刻を紹介しました。
周辺がまだ原野だった1998(平成10)年に開校した同校の、校門右にある鉄のオブジェです。
以下、「新都心かわら板」の「新都心を歩く-7」から。
「~この高校にある現代彫刻に気がついた方は、さほど多くないでしょう(学生や保護者以外は入れない感じですしね)。ゴヤ・フリオ氏の「道化の箱船」という、金属作品で、開校した年に制作されたものです。
フリオ氏は1953年アルゼンチンのブエノスアイレス生まれ。両親が西原町出身の移民二世です。1985年来沖して以来、多くの作品を制作し、数多くの受賞歴をもつ作家です。県立博物館・美術館の中庭にある、赤と青の大きな作品も氏の手によるものです。沖縄人の陽気な気質に、アルゼンチンで培われた大らかな感性が融合して、ダイナミックかつ柔らかな(鉄を使っても)作品が生み出されているように思われます。」
(三嶋)

『しまたてぃ』最新号が出ました
2012年6月12日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』連載中の「戦後を歩く」で、今回は「屋富祖大通り」を取り上げました。屋富祖自治会が発刊した写真集から、戦後の日常がストレートに伝わってくるような気がしたからです。
屋富祖は戦前まで静かな農村でしたが、戦後出現した基地(キャンプキンザー)によって、あっという間に繁華街へと変貌した所です。そして、かつての「繁栄」が完全に過去のものとなった現在、基地の門前町だった他所の街と同じように、さまざまな負の遺産を抱えて苦しんでいるようにみえます。
しかし、沖繩の米軍基地移転が現実的な選択肢となりつつある今、身近な歴史や暮らしを学び、ライフスタイルや価値観を見直すことで地域が元気を取り戻すことは、十分可能ではないでしょうか。それは基地の町だけではなく、沖繩に住むわれわれみんなの課題だと思います。
(三嶋)

ハーフムーンヒル
2012年5月30日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
那覇新都心通り会の「新都心かわら板」に、「新都心ある記・ハーフムーンヒル」と書きました。
ハーフムーンヒル(半月形の丘)は米海兵隊の呼称で、陸軍はクレセントヒル、地元では「ウフドウムイ(大道森)」と呼ばれた丘です。
真嘉比小学校の南側にある(あった)山です。
放置された墓があちこちに立ち並んでいて、これまで足を踏み入れるような場所ではありませんでしたが、ここがシュガーローフ以上の激戦地で、日本兵の遺骨がまだ埋もれているとは、2008年におこなわれた市民参加の遺骨収集作業に加わるまで知りませんでした。
当日は「ガマフヤー」の具志堅さんの案内で、真嘉比壕や遺骨の発掘作業に立ち合いましたが、街中に現れた生々しい戦争の傷跡に誰しも息を飲む思いがしたはずです。
そこに横たわっていたのは、抽象化された「日本兵」ではなく、1人の肉体を持っていた個人、名前を持っていた亡骸でした。
新聞報道では、この地域に102名の日本兵が立てこもり、93人が死亡したと伝えています。
同地の収集作業は、しかし、新都心から松川方面に抜ける道路工事にせき立てられ、不十分なまま(まだ多くの遺骨が残ったまま)終了します。
具志堅さんたちの粘り強い活動がぎりぎりまでおこなわれていたことは、マスコミ報道などでご存知だと思います。
現在、ハーフムーンヒルの多くは道路に削り取られ、コンクリートに固められた法面をさらしています。
(三嶋)

屋富祖大通り
2012年5月28日 Category: 沖縄ある記 Comment : 0
『しまたてぃ』連載の「戦後を歩くシリーズ4・屋富祖大通り」を、よくやく入稿しました。
2月に調査したものなので、思ったより時間がかかりましたが、まずはホッとしたところ。
同地は、言わずもがなキャンプキンザーとともに生きてきた町ですが、コザや金武のような「基地の町」の面影はほとんど残されていません。
人影もまばらな現在の大通りからは、かつて浦添の中心地といわれたほどにぎわったという話も、現実感がないように思われます。
しかし、町や人々の記憶をきちんと記録し後世に残すことは、よりよい未来を招来するために、どの地域にも不可欠な作業ではないでしょうか。
基地の返還が現実味を帯びはじめたこの時期だからこそ、先達の証言に耳を傾け、歴史に学ぶことがいっそう大事になると思われます。
われわれも、この機会を起点にした交流を継続し、さまざまな記録を残したいと考えます。
(三嶋)
