YuiSha  
map
flag ブラジル連邦共和国
Federative Republic Of Brazil

 ブラジルへの日本移民は1908年(明治41)に始まりました。第1回ブラジル移民は、農業家族移民であり、158家族・781名が皇国殖民会社の手で募集され、1908年神戸出港の笠戸丸で送られ、ブラジルのサントス港に着きました。
 日系人の過半は、農業に従事しており、その所有面積は、日本の全耕地面積に匹敵すると言われ、主としてコーヒー・綿花・果樹の栽培、養鶏等に従事していました。
 県出身者については、初期移民のうち沖縄移民が41.6%を占め、圧倒的多数でした。沖縄県出身移民は、熊本県・福岡県についで3位の移民数でした。原則として3人の働き手を含む家族を単位とする移民形態でサンパウロ政府から渡航費の援助を受けコーヒー生産に従事する契約移民でした。
当時の様子としては、初期移民はサンパウロ市の移民収容所から指定されたファゼンダと呼ばれるコーヒー農園に配耕され2年契約で就労につきます。しかし、過酷な労働条件に耐えかねは配耕地の農園から夜逃げ、いわゆる脱耕者が多く、そのため沖縄出身移民は日本領事館から厳しい苦言を受けるという事態も発生しました。
 第2次大戦後の混乱した日系移民社会は、ブラジルの経済的変化に伴い、1950年代から1960年代にかけてサンパウロ大都市圏や地方都市に移動し都市型職業への転換を迫られた一方で、1950年代に至ると多くの戦前移民は老年齢化し、無職隠居の時代を迎える事になりました。
 2008年に移民100周年を迎え、現在では6世までが存在し、多くの沖縄県系人が暮らしています。

<参考>
・沖縄県史(2011)『沖縄県史各論編第5巻 近代』沖縄県教育委員会.
・沖縄県立博物館(2000)『特別展 日系移民1世紀展』


写真提供

●写真提供者:比嘉 梓さん(写真所持者:母方祖父母)


戻る