ペルー共和国
Republic of Peru
日本からペルーへの移民は1899年(明治32年)佐倉丸によりペルーのカヤオ港に到着した790人から始まりました。これが日本から南米への初の移民でもありました。
沖縄県からのペルーへの移民は、1906年(明治39年)に36人がわが国第3回の契約移民774の一員として10月16日に厳島丸で横浜港を出発し、11月21日にカヤオ港に到着したことによって始まりました。
ペルーへの沖縄県出身者は一旦道が開かれると着実に増加し、特に1907年に64人、1908年に256人がペルーに到着しました。
ペルーにおける沖縄県出身移民の特色についてみると、当初サトウキビ耕地への契約移民として渡りましたが、当時大地主制をとるペルーの農業制度化にあっては、移民はいくら頑張っても独立農にはなれず、農業移民としては成功しませんでした。そのため、彼らは名目は農業移民としてペルーへ渡ったが、しだいに首都リマを中心とした都市へ進出し、飲食店・雑貨店などの商業を営んだり、理髪店を構えるものが多くなり、都市型の商業移民として成功するようになりました。
第二次世界大戦が開戦し、日本移民は敵国人とみなされ、財産はすべて没収され、うち有力者はアメリカ合衆国本土へ強制送還されました。
大戦後は、戦後移民が開始されるといち早く呼び寄せ移民が始まりました。戦後日本からペルーへの移民は、沖縄県を除いてほとんど見られず、一世の死去・高齢化とともに、現在二世・三世の時代に推移しています。沖縄県出身者の職業も多様化し、あらゆる分野に進んでいます。飲食店・パン製造販売業などの商業、綿花、野菜、果樹、花卉栽培などの農業、養鶏業などの畜産業、軽工業や貿易業などが代表的な職業です。また、2・3世等には医師・大学教授・弁護士・会計士・建築技師・公務員など室の高い職業も数多く見られます。
参考
沖縄タイムス社(1987)『海外沖縄最新情報』沖縄タイムス社
名護市(2008)『名護市史本編 出稼ぎと移民Ⅱ』 |