アルゼンチン共和国
Argentina
1886年(明治19年)一人の日本人、牧野金蔵がブエノスアイレス市に上陸し、その後30年余コルドバ市に住み着いた事実をもって、日本移民の始まりとされています。移住目的の日本移民の集団となると、1908年(明治41年)ブラジルへの初回笠戸丸移民の一部がアルゼンチンへ転航したことをもって始まるとみなされています。アルゼンチンでは契約移民の制度を採用しなかった、アルゼンチン政府が白人移民受入を優先したため、ブラジル・ペルー・チリ・ボリビア・ウルグアイなどの近隣諸国からの転航者、また、日本からの直接渡航者などの自由移民でした。
沖縄県からのアルゼンチンへの移民は、1908年(一説では1909年)ブラジルへの初回移民が転航したことによって始まるといわれます。この初回ブラジル移民のなかに沖縄県出身者移民が最も多かった関係上、以後アルゼンチンの日本移民の中でオキナワケン移民の占める比率が高くなっていきます。また、遠くペルーやボリビアなどから、アンデス山脈を命がけで超え、当時南米一の先進国であったアルゼンチンへ転航してきた沖縄県出身者移民も少なくありませんでした。
沖縄県からアルゼンチンへの正式な外務省の認可による移民の記録は1913年(大正2年)の14人から始まります。しかし、実情としてはブラジルなど周辺諸国からアルゼンチンへ自由移民の形態で多くの転航者が見られたのです。
1913年以後は沖縄県から毎年継続してアルゼンチンへ移民を送り出しました。その結果、1913年から1938年までの26年間に沖縄県からアルゼンチンへの出移民総数は2754人を数え、日本からの移民の中で高い割合でした。
しかし、第二次世界大戦の勃発により、アルゼンチンへの日本移民は中止され、日本移民の送り出しは中止となりました。
戦後沖縄県からのアルゼンチンへの移民は1948年(昭和23年)から再開されました。南米諸国のいずれの国よりも早く移民が再開されたことは、ペルーやブラジルなどのように開戦による敵対国としての日本移民に対する措置が厳しくなかったことと関係があります。現在では、アルゼンチンにおける日系人のうち沖縄県出身移民が7割を占めています。
参考
沖縄タイムス社(1987)『海外沖縄最新情報』沖縄タイムス社
名護市(2008)『名護市史本編 出稼ぎと移民Ⅱ』 |