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沖縄ある記

 

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国際通りをデモ

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戦争法案廃止を求める県民大会に出かけてきました。
県庁前広場の集会には間に合いませんでしたが、国際通りのデモに参加。蔡温橋手前まで夫婦で歩き、いい汗をかきました。

主催者発表で1500人ということでしたが、若者や赤ちゃんを連れた若いお母さんが目に付いたのは、身近な問題として敏感に反応したのでしょうね。
ボクも、彼女たちと同じ年代の娘や孫を持つ身ですので、国の行く末や身の危険を感じながらの子育ては、させたくないと願います。
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県庁前から出発するデモ隊。
がなり立てるヘイトスピーチの幼稚さに苦笑。
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国際通りでは道行く人とエール交換。
なかには観光客や、バスの中から手を振る人の姿もあって、思わずウルウルしたんです。
(三嶋)

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国際通りとヤシの木

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国際通りが観光客通りとなって、県民の足が遠のいていることは誰しも知るところ。
久しぶりに歩くと、ここはハワイか?(行ったことはないけど)と言いたくなるほどで、お尻の辺りが妙にムズムズしてしょうがない。
トロピカルなイメージの演出には、歴史や生活感といったものは、邪魔なんでしょうね。

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ヤシの木が沖縄で普及した年を調べてみると、1962年にはじまった、那覇市農水課の「ヤシいっぱい運動」からのようです。当時、南国色の演出として、台湾から多くのヤシ類が輸入されたと新聞にありました(1965.11.5琉球新報)。

それより前の1955(昭和30)年ごろから、国際通りでは、歌にもなった“銀座の柳”に触発されたのか、ヤナギが初代の並木として植樹されていました。
「モダンですっきりした感じをあたえる」との記事(1958.7.14沖縄タイムス)には、首を傾げてしまいますが、米軍基地が強化され、本土復帰を指向する流れが強くなるなかでは、銀座のヤナギまであこがれの対象となったのでしょうか。

しかし、やはりヤナギは脆弱過ぎたのか、立ち枯れが目立つようになり、本土復帰のころからイスノキに切り替わっていったようです。
そして海洋博を契機に、トロピカルイメージの演出上ヤシ類が必須アイテムとなり、国際通りもそれに従うという経緯をたどったのではないでしょうか。

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イスノキが街路樹だったころ(1998)年の国際通り。
ところで、沖縄の樹木に関しては、戦後の焼け野原を緑に変えようと、行政や住民、新聞社などが一丸となって緑化運動を展開したことは、記憶にとどめておくべきでしょう。
そして、この運動に共鳴した本土各地から、たくさんの苗木が沖縄に贈られたことも忘れてはいけないように思います。
そこには、戦禍の傷を慰撫する国民共有の思いが伏流していたはずですし、とりわけ地上戦で焦土と化した沖縄を思えば、なおさらだったのではないでしょうか。また、沖縄戦で戦死した肉親・縁者を持つ人々の思いも、そこにはたくさん込められていたはずだ想像するのです。
(三嶋)

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「政府前通り」追記

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「沖縄の戦後を歩くー政府前通り」を掲載した、『しまたてぃ』(72号)が発行されました。
今回は、久茂地・泉崎の戦前から戦後の姿を書きましたが、沖縄の中心といえる場所だけに、欠かせない史実やエピソードが多く、取捨選択に悩まされました。
社会背景なども、もう少し織り込みたかったのですが、ネタを突き合せるだけでクラクラしてしまい、「アメリカ世」の複雑さを思い知らされました(勉強不足が露呈しただけという噂もあり)。

割愛せざるを得なかった資料の中では、県庁前のクバの木の話が気になった(覚えている人も多いし)ので、ここで紹介します。

このクバの木は、十・十空襲や沖縄戦を生き延びた3本で、初代琉球政府主席の比嘉秀平が、「絶対に枯らしてはいけない。もし枯れるようことになれば、1本につき職員1人をクビにするぞ」と話していたそうです(沖縄タイムス1986.1.29)。
しかし、3本のうち1本が枯れたあと、残りの2本は、現在の庁舎が建設される際に一時的に移植。記事では、3年後の新庁舎完成時には元の場所に戻されるとありますが、その後どうなったのかはよく分かりません。
ボクが見逃しているのかもしれませんが、その後が気になりますよね。
「ホントに戻したのかな〜」と、実は疑ってるんだけど(笑)。


1954(昭和29)年ごろの県庁前広場。
中央右に見えるのが、戦禍を生き延びた3本のクバの木。撮影・大嶺昇氏。


1986年1月29日付沖縄タイムス(県庁舎 あの時あの頃<7>)
(三嶋)

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川は流れる

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那覇市内を流れるガーブ川沿いを歩くと、かつて仲宗根美樹(分かるかな?)が歌ってヒットした、「川は流れる」のイメージが浮かんできます。
「わくらばを/今日も浮かべて/街の谷/川は流れる〜」という歌で(知らないか?)、「わくらば」って何?と思ったものですが、ハスキーな声で物憂げに歌われる川のイメージは、暗い心情を映すメタファーとして子供心に残りました。


そして、そのイメージにピッタリなのが、沖映通りの地下を流れ、ジュンク堂のビルの前で地表に顔を出すガーブ川。
しかし、このところ周辺ではいろいろな工事が進んでいる様子。この風景も近いうちに変わるのではないでしょうか。
汚い川がイイという分けではありませんが、何でもかんでもキレイでオシャレな空間になると、息苦しくなるのも事実なんです。
生来の卑しさや貧しさに天の邪鬼も味方して、小奇麗なものを見ると「ケッ!」とか毒づきたくなるんですわ。


新しいビルが建設されるそばの岩陰で、放置されたようにみえる墓がありました。
墓標には「故陸軍輜重兵上等兵呉屋喜次郎之墓」と刻まれています(「輜重兵」はWikipediaによると「しちょうへい」と読み、兵站業務を専門とする兵士とのこと)。
ガーブ川と沖映通りの間にある間隙に、ポッカリと空いたこの異空間は、近いうちに取り壊されるのでしょう(たぶんだけど)。
「生者は死者に患わされることなかれ」とも言いますが、70年前に戦死したこの方のことは誰かが覚えているのでしょうか。遺族も途絶えた墓が、彼の存在を証明する唯一のモノだとすれば、その喪失は、国のために戦死した魂が、「公」によって再度殺されることを意味しているようで、暗い気持ちになりました。


ガーブ川の側にあった、今では珍しい、子どもがたむろする商店。
コンビニに取って代わられて随分たちますが、地域交流の拠点だったマチヤグヮーは、地域のセーフティーネットとして大きな役割を担っていたと今にして思います。
わたしたちは、どこで間違えてしまったんでしょうね。
(三嶋)

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県庁前通りの移り変わり

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『しまたてぃ』の取材が続いています。
今回は、戦後世代の話を聞こうと、わが沖縄ある記の玉那覇善秀さんと、その高校時代の同級生(久高さん・真栄田さん)に同行いただき、ハーバービュー通りまで歩きました。
現在、県庁が建っている場所には、アメリカ世の時代、行政府ビルがありました。
1953(昭和28)年4月、米国民政府が「琉球住民に献呈する」として建設したもので、1・2階を琉球政府、3・4階を米国民政府が使っていました。屋上には星条旗が翻っていたそうです(いかにも“占領”ですね)。
沖縄初のエレベーターもあって話題となり、近所の小学生たちは乗りに来たそうです。


ハーバービュー通りから見た県庁前通り。
現在の県庁前通りは政府前通りとよばれ、中央分離帯がある広い道路でしたが、当初は行政府ビル(現在の県庁)の前までしかなかったそうです。
アメリカのお偉いさんを乗せたでっかいアメ車も、ここでUターンするしかなかったとの話ですが、1954(昭和29)年6月に立法院ができたころ、ハーバービュー通りまで道が延びたのではないかという話でした。


県庁前通りから北に路地を入ると、かつての雰囲気が漂う変形の十字路があります。その角を左折すると“病院通り”、右の角には「松尾市場」があったそうです。
周辺には、琉球政府に出張で来る人が定宿にした旅館もあり、その奥は “ハーバービュー”とよばれた売春地帯でした。
“ハーバービュー”は西の行政区域と、東にある那覇高校との間にはさまれた空間で、近くの米軍基地の兵隊を相手にした飲食店が並び、戦争未亡人などが相手をする歓楽街でした。
現在の街並みから、隠微で危険な香りを漂わせていた当時の歓楽街の姿は想像できませんが、戦後史の断面として記録しておくことは重要でしょう。名もない庶民の姿は、表の歴史から抜け落ちるものですが、どんな人でも生きていた証は残したいものではないでしょうか。そして、そんな人たちの積み重ねで「今」があることを、忘れてはならないような気がします。


戦後の一時期、“ハーバービュー”とよばれた歓楽街の周辺は、沖縄戦の際に激戦が繰り広げられた場所でもあります。当時の弾痕も確認される戦前のレンガ塀は、戦後の混乱期を乗り越え、今にいたるまでこの路地裏にあって、何を見つめてきたのでしょうか。
(三嶋)

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