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沖縄ある記

 

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特定非営利活動法人
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名護博弁当会

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久しぶりにヤンバルの蔓草庵をたずね、帰りに名護博物館(友の会)恒例の、金曜弁当会に乱入。行くたびに、初めての方と知り合えるユンタク会ですが、今日も楽しいひと時を過ごしました。

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名護博物館は、施設内(中庭に面した半戸外)で自由に飲食できるという、奇特な場所。
手づくりのテーブルが2つとイスがあるだけですが、誰かれとなく訪れては、打合せをしたりユンタクしたりしています。

こんなにユルく、誰もが自由に使えるオープンスペースがある公共施設は、今どきほんとに奇跡的だと、行くたびにボクは(嬉しくて)笑ってしまいます。
博物館を訪れた人は、ついでに誰かを見つけて声を掛けてみましょう。
予期せぬ出会いが待っているはずですよ。
そして、「地元の人」が何よりの“おもてなし”であり、なおかつ最も興味深い“展示物”であることに気づくはずですよ(たぶんだけど)。
(三嶋)

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人の痕跡

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名護市許田のウガン崎に、自分たちで建てた家に住む夫妻がかつて居住していたことは、以前にも書きました。
当時の新聞や雑誌に掲載された記事を読むと、軍属だった米国人の夫と大阪出身の奥さんが、街の暮らしを捨て、自給自足の暮らしを目指して美しい海辺に移住したとありますが、その後を報じる記事は見当たりません。
二人がこの地を離れたのは、海洋博覧会開催(1975年)に合わせた高速道路の建設が、すぐ近くで始まったためだと思われます。
最近まで家の跡が残っていた、と言う友人たちもいたので(彼らの「最近」は30年ぐらいの振れ幅がありますが)、何か発見できるかもしれないと再び足を運んだのですが、背丈以上に生い茂る樹木に阻まれ、今回もそれらしい痕跡は見当たりませんでした。


写真の場所が唯一ともいえる平地。おそらくこのあたりに住居があったものと思うのですが、雑木が生い茂り、奥に進むことは無理でした。


その後、移動した源河ウェーキの屋敷跡。
高台に建つこの場所からは、南北の丘陵にはさまれた土地や海にそそぐ清流、川沿いの集落など、典型的なやんばるの農村風景が一望できます。
そして、源河の村を納め、隆盛を誇った家がこの場所にあったのですが、家屋が取り壊された今は石積みしか残されていません。

この日たまたま訪れた許田と源河の跡地は、どちらも今は時間のなかに埋没しつつあります。
許田に住みつき、自然と共存する暮らしを試みた夫婦、先祖伝来の土地を耕しムラを守ってきた一族と、人と土地との関係は異なりますが、やがてはその痕跡も土に還っていくのでしょう。
土地や家に縛られ、生きるのに必死だった私たちの先祖からすれば、人の一生はそんなものとの諦念や死生観が一般的だったのかもしれません。が、住居の痕跡さえ消えかかった跡地に立つと、寂寥感というか無常観のようなものが忍び寄るのも事実。
ピラミッドや銅像を建て、後世に残したい分けではない(そりゃそうだ)ですが、何も残らないというのも何だかなあとグズグズ考えたのでした。
(三嶋)

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名護のセミナーに参加しました

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名護市の中央図書館で開かれた、地域誌・字誌作りに取り組んでいる人たちの報告会。
沖縄は市町村をはじめとして、あちこちで多くの地域史が作られています。セミナーでは、実際に関わってきた人たちの苦労話や問題提起などもあって、いい刺激を受けました。

そして、行政やアカデミックな視点ではなく、日常の延長で地域を記録・蓄積することの重要性と、その方法論の検討が必要ではないかと感じました。
というのは、既存の市町村誌や字誌が、みんな同じような形態で作られていることに、ボクは以前から不満を抱いていたからです。
布張りのハードカバーに金箔の背文字、ケースに入った分厚く重い書籍といった従前のスタイルは、いかにも扱い辛いですし、一般の読者・住民に優しくありません。記念品として本棚にしまっておくとか、研究者などの利用を想定しているのなら別ですが、もう少し手に取りやすい形態やスタイルがあってもいいと思うのです。
このことは、「沖縄ある記」にも関わる課題であって、アウトプットだけを切り離して論じるのではなく、情報のインプットや加工、アーカイブなどについても同時に考える、包括的な取り組みが不可欠でしょう。
さまざまなメディアが発達した今日、コスト・パフォーマンスを最大化する手法と、そのための方向づけが立ち上げ時から求められるべきです。


写真は2014年3月に発行された、『新大宜味村史・ビジュアル版 わーけーシマの宝物』。
大宜味村内にある17の集落を、A4判・100ページほどの紙面でコンパクトに紹介しています。写真や地図などの情報が豊富で、ゆかりの人物やエピソードなども読みごたえ十分。
村史発刊は、民俗とか自然、沖縄戦、移民などのテーマごとに、それぞれ数年がかりで発刊されることが多いようですが、各巻は詳細すぎるがゆえに時間と経費がかかり、難しい内容は住民にも十分理解されていないように見えます。
この大宜味村のビジュアル版はその欠点を補い、今後の出版事業に対する住民の理解を得る効果もあるのではないでしょうか。
地域が急速に変容する今日、住民が地域を知るための出版が、まずは求められているように感じます。
(三嶋)

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名護の二宮金次郎

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敬愛する名護の又吉康仁先生を久しぶりに訪ねました。
自宅横の畑には、ホーレンソウやネギ、シマナー(島菜)が、青々と葉っぱを広げ、畑の奥にある土手ではサクラの花が咲き誇っていました。
まさに少量多品種の「やんばる型農業」の実践場。
先生はいつも元気で落ち込むことがないようですが、「小学生の時から二宮金次郎だったさあ」と言うように、家の手伝いをこなしつつ、勉強もスポーツも力いっぱいやってきた経験と自信が生きているからでしょう。
農業にはまったく素人のボクが先生のお宅に通うのも、先生の前向きな姿勢に学ぶ点が多いからに他なりません。


コージン先生とも話すのですが、現在の農業の行き詰まり状況は、農や食の問題を経済だけで語りすぎてきた帰結なのではないでしょうか。
近年かまびすしいTPPや農協問題の根底には、この国のずさんな農業政策が積み残してきたツケがあり、それが一気に表面化してきた結果のように思われます。その結果、零細な生産者がいつも振り回される、という事態を招いているのではないでしょうか。
「儲かる」農業を当たり前とし、コメや野菜を都合のいい商品とするために、合理化や機械化を進め、農薬をまき散らしてきたのが戦後の農業ではなかったのか。そして「豊かさ」を追求してきた結果、農業の崩壊を招来してしまいかねない所まで追い込まれてしまったのではないか、そんな疑問が頭をもたげるのです。
貧乏でいいと言うのではありませんが、もっと別の道があるのではないか。
そんなときに、コージン先生が語る「生き延びる農業」に出会い、目が奪われたのです。
理論と実践をくり返し、一人でコツコツと畑を耕す姿は、まさに現在の二宮金次郎ですし、理数系の頭と同時に琉歌や詩を諳んじるロマンチストは、宮沢賢治のようにも映ります。
われわれが先生に学ぶべき点はまだまだ、多いように思います。
少しほめ過ぎでしょうか、先生。
(三嶋)

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久しぶりの名護

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名護琉米文化会館に勤めていた大山さんと一緒に、名護に行ってきました。久しぶりの名護です。
大山さんは現在名護市役所となっている場所にあった、名護琉米文化会館のスタッフとして、1951年から1953年まで働いていた方です。
その後、那覇の琉米文化会館に移動されたのですが、大山さんが働いていた当時のようすを、しかも現場で聞くことができたのは貴重です。当時の関係者は、大山さんによればほとんどいらっしゃらないそうなので、なおさらではないでしょうか。
また、当時、文化会館に植えられたというデイゴも1本確認でき、周辺の町のようすも歩きながら聞くことが出来ました。


味がある大南区のビル。消えかけた文字が壁に残っています。


現在の合同庁舎はもとの名護高校。その道向いに写真のスージグヮーがあり、この細い路地を高校生たちが行き交ったとか。同行した一夫先生によれば、「あまり変わってないなあ」とのこと。


セメント瓦を乗せた木造家屋が、周辺にはまばらに残っています。セメント瓦が多いのは、名護が発祥の地で、工場も多かったからでしょう。
かつてはこの辺から、北西方向に嘉津宇岳の山並みが見えたそうですが、現在は建物の影に隠れてほとんど見えなくなっています。
(三嶋)

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